院長エッセイ集 気ままに、あるがままに 本文へジャンプ


やさしい家族


 やさしい家族に囲まれて私は幸せである。

 最近、夜が早い。つい、うとうととソファーで寝てしまう。細君はやさしいので、起こされることはない。そのまま朝まで眠ってしまい、節々が痛くなる。風呂も入りそびれて、朝風呂と洒落込む。洗面所兼脱衣所に入ると、今ではすっかり使わなくなった健康器具の上に、少し湿ったバスタオル。風呂から出た私が快適に使えるように、やさしい細君が昨夜、自分が使い終わったバスタオルを干していてくれているのだ。息子や娘も登校前にシャワーに入ることが多い。二人ともやさしいので、生乾きのバスタオルは、私のためにとっておいて、自分たちはふかふかのバスタオルを棚から出して使う。顔を洗うためにお湯を出す。私の常用する洗顔石鹸は洗面台のすぐ分かる場所にあって都合がいい。高級洗顔石鹸や洗顔フォームは目に付きにくい場所にある。私が誤ってそれを使ってしまわないように、細君がやさしく気づかってくれているのである。シャンプーも同様で、お高めのシャンプーやコンディショナーはすぐには見えない場所にあり、私の使うシャンプーは手の届きやすい場所に配置される。時々愛犬のシャンプーと隣合わせになるので、間違って使ってしまう。使用後、げげっと思うのだが、私の髪質には合っている様でもある。先日、のみ取り専用シャンプー&リンスを使ってしまった時はさすがに焦った。
 
 愛犬とのからみでいうと、台所のワゴンも危険地帯である。私のビールのつまみと、愛犬用のおやつが混在しているのだ。見た目も紛らわしい。私のぼけ防止のために、やさしい細君がわざとそうしているのかも知れない。よく見ると、犬のおやつの方が値段が高かったり、ヘルシー指向(合成着色料や保存料無添加)だったりする。細君は愛犬にもやさしいのである。いつだったか、危うく愛犬用おやつを口に入れそうになったことがある。その旨を、細君に話すと「ちゃんと犬のイラストが描いてあるじゃない。」と一笑された。「じゃあ何かい?ミッキーマウスの絵が描かれている商品は、みんなネズミのえさだって言うのかい?」と言おうとしてやめた。我ながら大人げないし、家庭でもいつも緊張感を持たせてあげようとする細君のやさしさを踏みにじることにもなりかねない。何よりも細君の機嫌を損ねてしまうのは感心しないことだ。ビールのおつまみとして出された小皿に、愛犬用おやつが人知れず混入されてしまう事件を未然に防がねばならない。
 
 顔を洗い終わって鏡を見ると、鬢のあたりに白いものが目立つ。窓から秋風が吹き込んだ。夏の盛りに誕生日を迎えて年をひとつ重ねた。かつては心待ちにした誕生日も、今となっては忘れてしまいたい日だ。誕生日の数週間前、息子と娘に、「お父さんの誕生日は何月何日でしょうか?」と聞いた。当然即答するだろうと予想していたのだが、二人は大いに困惑し、前後三から四日の曖昧さで自信なげに答えた。なんと言うことだ。やさしい子供たちは、私のかわりに、私の誕生日を忘れてくれていたのだ。しかも苦労して思い出した予想期間にもかすりもしない。よくできた子供たちにジーンときた。それはさておき、鬢の白髪をどうにかせねば。いつものメンズ◯◯◯ワンプッシュ(七百八十円)を取り出す。これは、缶に入っている商品で、専用のブラシに噴出すると、二種類の薬剤が平行に練り出され、そのブラシで髪を梳くと染まる仕組みだ。以前は髪全体を染める白髪染めを使用していたのだが、私の場合白髪の目立つ場所が限定的なので、細君が「この商品を使うと、部分染めが容易だし、一缶で五〜六回使えて経済的よ。」と買ってきたものである。私にも、そして家計にもやさしい細君に感動した。「でもこれだと、髪が長い君の場合は使いづらいのではないかな?」と問いかけると、「大丈夫、わたしは美容室で染めているから。」聞いたところ、カットなしのヘアーカラー(白髪染めとは言わないらしい)で一万二千円なり。私に男の甲斐性をさりげなく感じさせてくれるのも彼女のやさしさなのかも知れない。息子もこの間、床屋ではなく美容室に行ったらしい。ストレートパーマをあて、八千円。「これでも安い方だよ。」と言った。思わず胸ぐらをつかみそうになったが、私もやさしい父親なので、「投資に見合うだけの成果は得られなかったようだね。」という嫌みのひとつで済ませた。そもそも散髪に二千円以上出すのが私には理解できない。というか、私はこの三十年間床屋や美容室にほとんど行ったことがない。自分でカットするのである。私の場合、縮毛なので、多少稚拙なカットをしても目立たないし、髪型自体変更不能なので、ヘアスタイルには興味も頓着もない。なによりも金がかからないのが良い。
 そんな私が三ヶ月ほど前大失敗をしでかした。カットの長さ調節機能付きバリカンを、頭皮に強く押しつけて使ってしまったため、いつの間にか15mmのセットが3mmに自動変更してしまい、後頭部の左半分を3mmで刈り上げてしまったのである。以前ハゲを作ってしまった時は、細君の機転でその部分にマスカラや黒のマジックを塗って誤魔化せたのだが、今回はそんな小手先の技は通用しないだろう。「大変だー。ヘルプミー!」と叫んで細君を呼び、直面する困難な状況にどう対応すべきかという協議に入った。仕方がないので側頭部から後頭部を3mmで刈り上げ、頭頂部は少し長めに残すという、名付けて「GIカット超ショートバージョン」で乗り切ることにした。ネーミングの妙でさわやかなヘアスタイルを連想させるが、実際はサルベージ作業に他ならず、素人の手によるマルコメ風お坊ちゃん刈りという結果に終わった。家族には思い切り笑われ、職場では冷ややかな反応や過剰な励ましが私を迎えた。思い切り笑われる方がいかに精神的に楽かを知った。家族のやさしさをしみじみと感じた。
 
 そんな出来事を涙ながらに回想していると、台所から細君の声が聞こえてきた。「きょうは燃えるゴミの日だから、出かけのついでにゴミを出してきてくれる?玄関までは出しているから。」窓から覗くと、ぱんぱんにふくらんだゴミ袋がでーんと玄関脇に置かれている。勝手口まで取りに行かなくて助かる。やさしい細君はさらに細かい心くばり。「詰めすぎて結び目が心許ないから、気をつけて運んでね。他の家のゴミが置かれてなかったら、収集した後かも知れないから、持って帰ってきてくれる?」

 やさしい家族に囲まれて私は幸せである。



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